石田徹也(1973-2005)個展「My Anxious Self」
現代の日本人の実存を描いた画家・石田徹也(1973-2005)の個展「My Anxious Self」(不安な自分)がニューヨークのガゴシアン・ギャラリーで2023年9月12日から10月21日に開催された。石田の夢であったニューヨークでの初の展示が生誕50周年の節目に実現した。
「石田の作品は今日、かつてないほど予言的」
展示の序文にあった印象的な言葉だ。他には、石田はバブル崩壊後の日本の若者が感じた不安やトラウマ、人間の孤独を描くことにより、不条理で疎外を感じるこの世界に、人の繋がりや社会の価値、そして今日我々が抱える困難や共同体への意味を問いかけると書いてあった。キュレーターはニューヨーク在住イタリア人のチェチリア・アレマーニ。ニューヨークのハイラインのアート・プログラムや、2022年のヴェネチア・ビエンナーレ「The Milk of Dreams」のキュレーションの経歴を持つ。
"ガソリンの燃料補給のように食事をとる人間"
"スーツを着た男に振り回される、またスーツを着た男たち"
"工業製品の梱包材に入っているとある家族の遺体"
絶望的な世界だが、石田特有の鎮静的な色彩感覚と空間描写、丁寧に塗り重ねられた絵の具により、どこか祈りのような救済的な感覚を見るものに与える。私たちは、囚われている世界を石田の絵を通して内省的に追体験することで、外的世界と内的世界が分けられていないリアルな感覚を心のなかに重層的に喚起する。この感覚は苦しみを伴うが、ともに実感することは救済だ。
1973年に静岡県に生まれた石田は、「ラッキードラゴン事件」(1954年に米軍の核実験で日本の漁船「第五福竜丸」が被爆した事件)を描いたリトアニア系アメリカ人画家のベン・シャーンから大きな影響を受けた。第五福竜丸の母港は石田の出身地の静岡県焼津市だ。8歳には焼津市の作文コンクールに第五福竜丸についての作文「まっしろ船君へ」で入選する。被爆した漁師や船に「かわいそう」と何度も投げかける言葉が印象的な作文である。11歳には、小・中・高校生対象のポスターコンクール「人権マンガ」に応募し「弱いものいじめはやめよう!」という作品で最優秀賞を受賞。幼いころから社会問題に関心が高かったことがうかがえる。1996年に武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科を卒業。その後、東京で精力的に絵画の発表を続けたが、踏切事故により2005年に不帰の人となる。死後も石田の作品は国内外で展示され続けた。
石田はわずか10年ほどの画家人生で200点以上の作品を残し、80点以上が今回展示された。並んだ作品を目の前にすると、まるで修行僧のような姿勢を感じた。作品群から感じる石田の強い信念と意志、対照的に絵のなかの脆弱な人物と絶望的な世界が広がり、独特な空間を生んでいた。
ギャラリー内には至るところに当時の日本社会に関する説明があった。90年代の日本は、パソコンや携帯電話などの新たなテクノロジーの黎明期で、人間と機械が融合するディストピアな世界観の漫画やアニメの黄金期だ。同時に、バブル崩壊後の経済不況、ひきこもり、過労死、自殺、阪神淡路大震災、東京地下鉄サリン事件などの社会問題が増え、石田がどのような状況のなかで生き、絵を描いていたかを伝えていた。戦後の混沌からバブルにより奇跡的にすべてがうまくいったかのように見えた日本は、集団心理と資本主義が絡み合い、心理的に人が孤立し、自ら閉じ込もらざるを得ないような社会になったと物語っていた。
キュレーターのアレマーニはガゴシアンの季刊誌で、石田は当時の日本で主流であったネオ・ポップの表現から距離をおいていたと指摘する。90年代の日本のアートは大衆文化を引用したかわいい要素を取り入れた表現が人気であったが、石田はその流れに反し、注意深く自分を取り巻く日常生活や実存的な状況を見ていたと言及する。厳しい現実を描いた社会的リアリズムと、疎外感への解毒剤として想像力を用いたシュルレアリスムの両方の影響を取り入れながら、規制社会がもたらす日本人の疎外感や孤立感、集団性と孤立感の間で引き裂かれる感覚、過労と日常生活の麻痺、逃れようのない虚無感を表現した。そういった作品に生涯を捧げた石田の声は孤独であったであろうと推測している。
展示会場は人が絶え間なく入っていた。絵を見ながらほほ笑んでいる人が多かったことが印象に残っている。石田の絵は一度見たら忘れられない強烈なインパクトがあるが、見るものを威嚇したり、区別する要素を感じさせない。ギャラリー内には、どのような思考をたどったのか、以下の石田の言葉が紹介されていた。
最初は自画像に近いものだった。弱い自分をギャグやユーモアで笑えるものにしようとした。結果は、笑えるものだったり、余計かなしいものができたりして、見るによっては、風刺や皮肉と受け止められることもあった。そうやって続けていくかていで、自分自身が消費者、都市生活者、労働者、と広がってきて、自分の感じる社会問題も意識するようになった。
展示は、Neo-Tokyo(ネオ東京)、Waiting for a chance (チャンスを待つ)、Desparately Loneley (絶望的な孤独)、Helpless Metamorphoses(無力な変身)、Restless Dream(休まることのない夢)という5つのテーマで構成されていた。晩年の作品が集まるRestless Dreamにはベールがかかったような魅惑的な世界が広がる。ユーモアの要素は晩年になるにつれシリアスになり、油彩の作品も増え、より内的な世界に入り込んだ象徴主義にも通じるような変容を受ける。展示は以下の文で締めくくられる。
「夢を連想させる非現実的な空間が晩年の作品の特徴だ。初期のグロテスクな変形が際立った作品から、ときおり女性のまわりに子供がいるような、より個人的で、母性、生、死、愛を連想させ、夢のようなイメージとなる。石田は日本の社会システムの矛盾に翻弄される人々を描き続けなければならないと感じていた。芸術は現代の社会的矛盾を浮き彫りにできるという彼の休まることのない夢は、今日かつてないほど響いている。」
近年のニューヨークのアート・シーンは、トランプ政権からブラック・ライブズ・マターなどの社会情勢とともに、あらゆるマイノリティの世界をクローズアップしてきた。そしてコロナ禍で人と接触できない長い日々を経て、ニューヨークには人間の孤独や疎外感を描いたエドワード・ホッパーの世界が再来した。バルネラビリティ(心の弱さ)という言葉をよく耳にするようになり、昨年もホイットニー美術館でホッパー展が開催された際には、個人的な心境を投影できる何かを求めている人がいかに多いかを実感した。
展示にはヨーロッパで生まれ育った友人と見に行ったが、以前であったら石田の絵の魅力は実感できなかったと言う。ギャラリーの人も(時代を示すテクノロジーはあるが)今の時代に描かれたものだと思った人が非常に多かったと語っていた。そのような感覚は、この展示の序文や批評記事で見かけた「予言的」という言葉にも表れている。私はずいぶん前に読んだ、イギリスのヴィクトリア&アルバート博物館で開催された浮世絵展に関するGardianの記事を思い出した。そこには、西洋の芸術家が浮世絵に何かを見いだしそれが美術史においてモダニズムの発明に役立ったのではなく、近代美術の最も破壊的なアイデアのいくつかは、つまり近代的な感性そのものは1700年代に日本で発明され、19世紀初頭に北斎、歌川国芳、広重によって、すでに完璧に表現されていたという内容だ。多様化が進んでも、いまだに西洋がオフィシャルと呼ばれる美術史であることは残念ながら変わっていない。しかしそれよりも、人はいつの時代も心の奥底で感じていることを、芸術を通じて共有することを切望しているものだと、石田の絵を前にあらためて感じた。
註
石田徹也「石田徹也ノート」、求龍堂、2013年9月、16ページ